白癜风医院好不好 http://pf.39.net/bdfyy/bdflx/140919/4477514.html金子光晴《水の流浪》
此書を
福士幸次郎先生
にささぐ
自序
詩人と銘うたれて、をこがましい次第であるが、又こんな本を出すことになつた。こがね蟲以後五六年の間の作品、「航海」「水の流浪」「シャンブルドナチュール」「茂木、長崎にて」といふ順序で作風が今日に至つてゐる。作曲先生高田守久氏に厚く御礼申上る。
水の流浪
沃度(ヨード)と塩の水は、赤といふも、緑といふも、金色といふも、ただ色ならぬ色、光線ならぬ光線で、流浪してゆく。あみ目硝子に、路考茶に、霰(あられ)小紋に、水はすゝりないてゐるか、歎美してゐるか、放神してゐるかである。
そこを流れてゐる一切の魚族、放逸で、非人情で、非実在的で、半透明で、やりころのない仄明のなかを紡錘形に、又扁平に、無明の澄火をともして彷徨ふ簇よ。夜昼ないみる色の水に、細い、白い魚が浮みあがり、それとみる間に幾百の燦爛たる鯛の群となつて眼前をゆく。おゝ、何たる漂泊の美しい群衆だらう。いづくへのはかない行旅であらう。
くらい蝙蝠(かうもり)住む岩洞に添うて、激流は、逆様にくつがへる。旅しつかれてきたペンキ塗の船舶はゆれゆれながら、この動揺する島添ひの青い水のなかに、遠く遠く、蹣跚めく小さな碇をおろす。
水は又、陸を離れ、遠くさびしくゆく。びろうどの帯の海蛇の幾町とつづくうねりをなして、重く、はてしない因果律をつづけてゆく。海水は霧となり、筋となり、急ぎ、うち、誘ひあひ、その水の虚に、花傘海月(くらげ)や、夜光蟲をかざりつつ、淡く、深く、緑になり、紫とかはり、虚空となり闇となつてゆく。ああ、海水の色には熱がない、熱がない。たゞ感情の淡い悲と咏歎と、疲れが声を立ててうつつてゆく。そこに咲くすべての生活は、皆一つの哀歓と流浪であつて、帰結もなく、出立もない旅の旅である。
定着もない憂愁と心易さに、すべてが一様に流されてゆく。
おゝ、わが悲しい水の流浪よ。層の層よ。大きな潮の洞穴よ。そして、私、私の生活は、いつもこの美しい漂浪の息をきく。
およそ、疲労(つかれ)より美しい感覚はない。
おゝ、硝子壜の中の倦(ものう)い容積を眺めよ!
そこに、非人情な水の深潭をみよ!
人生は花の如く淋しい海の流転である。
破れ易い水脈(みを)の嘆き、
水のなかの水の旅立ち……。
忽ち! 水は激しい焦燥憂慮の潮に囚はれる。
花崗岩の絶壁に添ひ、白い苦塩はもがく。
硝子の畦の海藻の花の疲れ
青眼鏡の底の白内障(そこひ)の水泡……。
又、その郷愁的(ノスタルジツク)な峡間(いはま)に、
清い霰色の谿流はそそぐ。
単一(センプル)な花藻の森の明いうれひ、
……石角を螺一つ静かに転んでゆく。
然し、ゆるやかな淡みどりの太洋に、
水の彎曲に、こまかい雨の紋……
桃の花色の半透明な帆をあげる蛸船をみよ。
途上の途上なる傲の悲しさよ。
零落の水層(みづかさ)深く、深く入れ!
こゝは、生存より遠い潮の喪礼……。
赤い実の乱れゆれる威烈の神馬藻(ほんだはら)の列、
……幾十尋の林の冷い奈落、
夜となれば、猶、水のはかなさよ。
望もない、欣もない簇(ぞう)は、闇の大虚無の中に喪神と、
悲歎から、海水は滝の如く
いづくにかそそぐ。
黒い正覚坊のむれる悪水の哭き、
真夜、満天の斗宿を急ぐ大鮫鰐(だいかうがく)、
おゝ、方向もなく溢れる瀦槽の水……。
欣求も、嘆も、氾濫も、静止も
たゞ、無終無始の長い流浪である。
生命とはかゝる中性な水の感情、
……憂鬱な波紋の上の波紋である。
あはれあれ、松樹林を彷徨ふ冬の陽の淋しいランプ。
灰色の岩礁に、感情はすべて死にはてた。
そのとき、私は孤、松籟により、
愛執と別離の淵源の愛をきく。
海の小品
一 鷗
神代ながらの火の岩鼻に、
むらがり聚つてふぢ壺が、地のうなり、天のとどろきをきく。
紫の岩洞奥ふかく飛沫は、鬣ふつてをどり込む。
清澄な朝の全海景は、潮煙りに送られる。
そのとき岩礁に影をおとし、
天使たちが提げる金の聖龕燈、
二羽の鷗が、蒼冥を横ぎつてゆく。
プラチナの燈台さして、
いのちの細笛をふきつれて。
二 燈台にて
沖へ。鳞旅どもが背をすり合せ、のり越え、競ふ大洋へ。
瞬間にいのちを賭けて、沖へ、沖へ、わたしは若い。
わしはかへつてきた。あそこから、闘ひに疲れ、憩ひをもとめ、
入江に抱かれ、松籟の渚に巻き返し、身をまろばせて眠るため。
白昼、燈台下の焼岩から両足をたらし、目をとぢて、
私は、うづ巻く波涛のざわめきなかに、この二つの言葉をきいた。
新造船
からからになつた蒹葭の穂に、
ちぎれとび、白雲がかゝり、
その蔭の日だまりに繫がれた新造船。
目にしみるやうな木の香の新しさ。
あかん坊のやうにまつ裸な、
舟ばらをくすぐる水の反映よ!
青空の淀に、高々と突入る舳、
ゆれる二本の帆柱と、荒ごも、
艫には、「神明丸」と刻んである。
あはれ。まだとも綱を解かぬ若いいのち。
清く、すこやかで、おのれをたのんで
水のうへを走るそのはやり気よ。
風は頰を裂き、風の一むちで洲は漣たち
よしわら雀むら立つ蘆間に、
ふきあがる血よ。組みあげた筋骨よ。
鳴戸、逆潮を夢にみて、
紅染まる艫の格子櫓に、
幣束さした神酒と榊の枝。
古靴店
いまにもふりだしさうな五月空。
うらぶれた港町の、一軒の古靴店。
軒につるした古靴はどれもこれも
踵がちび、革が破れ、いづれ修繕しつくして、なほしがきかない廃れもの。
いまの落魄が、一入身に沁みる華奢型や、
時代おくれなふかゴムや、
色紙だらけの学生靴。
権勢の俤失せぬ長靴や、子供靴、
それぞれに、どんな海路をわたりつかれて、あつまつてきたぼろ舟たちか。
おゝ、かなしくも諷諭的なこのながめよ。
私は猶も、そのなかから、足にあふ伴侶を物色する。
知つてるよ。どこかの人の汗や足脂でぎちぎちになつた底革や、突き出た釘の痛さなど。
知つてるよ。しみこんでくる水のつめたさや、泣きたさや、
おちぶれたものの心にかよひあふ、私たち同士のほろりとしたおもひやりふかい言葉など。
果実店
冬空に、悲しい霙雨の雲の表情が岐れゆく。ぬれしをたれた帆布がはためき、河口の倉庫から、荷上げ起重機のチェーンの音が底だるく、よそぐにの闖車のやうにきこえる。殊にもうらがなしい港の裏町の支 那パンツを干した物ほし場や、鉢もののならんだ裏二階のあはひの細路を私は歩いてゐた、暗鬱な、圧伏せられたこの自然のなかに、猶若々しいヒステリックな私のこゝろが気象信号旗の赤の方向をもとめ、時代と年齢の鬱勃のなかに、悲壮で生新な爆発を願つてゐた。泥濘と屍魚のどすぐろい街……。
とある街角に出た時私ははたと立止つた。角店の一軒の果実店の豊饒な色彩祭が、私のくらい心に火車を投げこんだからだつた。五点形に、三角に、或はなんとなく乱雑につみあげた林檎の紅、ネープルの黄、蜜柑、朱欒、爪形のバナナ、梨、鳳梨その他、季節外れな、南方からの果実のたぐひ。うらやましいほどつやつやした開放的な新鮮な香気にみちあふれたくだものの生命が、私のからだの頭から爪先まで照り映えた。一人の運搬人がそのとき、門口につけた荷車から大きな丸籠に盛られた山もりのくだものを店の方へはこんでゐたがどんなはづみか、重い籠が平均を失ひ、運搬人の腕のあひだから果実が無数の爆弾のやうにころがりおちた。花やかな夢が往来へ八方に散乱し、黒い泥濘の海に、赤や、黄や紅の色彩がみるみる氾濫した。
私の鬱屈の黒いかたまりがそれによつてはじめて、はけ日をえた。私はおもはず万歳と叫んだ。祭の爆竹がその瞬間、うすぐらい街のどの横丁のどのすみからも一時に打出されたやうにきいたのは、そら耳だつたかしら。
色の深淵
どの色にも深淵がある。
板塗料、鉄塗料、すべての工業用顔料、コールタール、アニリンあるひは、ブリキ槽のなかの種々なペンキ、草木染など、おもひおもひの色のふかみに溺れ入つてみよ。その色の底には各種の色のもつ地獄がある。
単色には、原始的な憂愁があり、魂をうばひ去る滅亡の唄がある。
色と色との単一なコントラスト、ぶつちがひ……縞や、井桁など素朴な図様のなかから人は、高い海風や、青空を染めるとおなじ無限の情緒をくり出す。それは絵画のやうな擬象的な世界の表出ではなく、より直接に、単的に、それらの自然の本質と抱きあひ、気稟を通じあふものなのだ。そこには、ぼかすものなく、細い線の遊戯や、自然の模倣はない。すべて力強く鮮明で、白も、赤も、青も、黄も色として純粋に生き、かつきりと配列される。
諸君!さてこそ人はこの深淵の色どりをもて第一に国旗を染めるだらう。それから建物を、柱を、屋根を、酒場の荒木の囲ひを塗るだらう。又、エキゾチックなジグナルや、郵便ポストを塗り、酒樽をぬりさては高いマストや煙突や通風筒をぬり吃水線と船側を塗る。またくさぐさな玩具類を、熱情的なさまざまなポスターをぬる。
水母
まだ春あさい日の午後、
青い亜鉛と、荒木で囲つたバラックが、紺碧の空のした匍ひ重なるやうにしてつづいてゐた。
震災で石垣の崩れたままの川塘、焼けた木材が倒れこんでゐる小さな濠割に架けた、木の香新いい仮橋の欄干にもたれ、小学校がへりの子供たちが水面をのぞきこんでさわいでゐた。とみると、流材や、澪木のあひだの油のひろがつた水のうへを、あげ潮にのつた水母らが、ゆつくり流されてくる。みじめにゆれほぐされたさくら紙のやうに、仄白く浮きつ沈みつして……
珍らしい物好な子供達は、噪ぎたてて、石をぶつつける。石はなかなか的中しないで、届かなかつたり、行きすぎたり、遠かつたり、近すぎたり。橋梁の下へ水母が吸込まれると彼らはどやどやと、反対の側の欄干へ、我勝にとあつまつて待ちうけ、ねらひ打する。偶然石が的中すると、水母は、しばらくのあひだ萎れたり、ひろがつたり、つまづくやうなかつこうでいたいたしくもがきながら、やがて美しく変色し、紅味がかつた紋線を開いて、そのまゝむかうへ流されていつてしまふ。
水母は一つ二つ、三つ、四つとつづいたり、近くかたまつたりしてあとからいくらでも流れよる。
私は、子供たちに、おもはゆげな水母たちの、軽侮をうけたときの物乞ひや浮浪人たちの微笑のそこの傷心のつらさをしらせてやりたかつた。
すべて掘返された世界のうへの、晴れがましい日光のなかに、憔悴しはてた生物の游行!
この水母たちのすがたは、そのまま私の姿にほかならないのだつた。
池のほとりの小品
一 誕生
まだ明けきらぬ池のおもてに、こまやかにふりこめる霖雨のなか、
うちからのめざめに、仄暗い水のうへの、白蓮は、割れる。
花びらの開く音は浮ぐさをわたり、
うつうつと眠る燈心草を誘ひ、
沢潟や河骨のあひだをくぐつて
こだまをひきつれてまたかへつてくる。
こだまがこだまを返すやうに、
あちらから、こちらからきこえる音。しばらくは、
水が咲かせる開花の清さ、明るさ、にぎやかさ。
二 水禽小屋
どこまでも、亀甲型の金あみが張りわたされ、
陽がさせば、身におちかゝる、とらはれの網目。
あゝ。なんのための翼ぞ。翼にのせる自由ぞ。
コンクリの三坪に足らぬたまり水に、
吳越同舟の水禽ら。蹼で立ち、羽ぶるひ。
がやがやとさわぎながら、
餌につられて、水もぐり。
うき沈みのかいつぶり。香盒めいた鴛鴦や、
洗濯女の鵞鳥、鷭や、ちどりや、
止り木の白扇に似た五位鷺も、
田の鳧も、海の鷗もけじめなく、
人みな所をえぬ我人生をみるやうだ。
こゝろない人のあひだにまじりながら
まじりえぬ心は、時折空をこがれて、
金あみのあるのを忘れ、むなしく翼うつ。
三 鯉
水のおもては、いちめんに
緑青のふいた古い銅鏡。
水藻、浮藻の底ふかく
さす陽うごかず。
大鯉一尾、
涅槃のまゝにうかびあがる。
三十三鱗は、金光をはなち、
身ゆるぎもせぬ傲りの姿は、
聖者のやうに、光背を背負ひ、
あたりの静寂をひきゐる。
跳ねあがれ。一つの思ひひらければ、
十年も一とびに越えて、君は、
じつにゆうゆうともぎ出しさうだ。
漂泊の歌
ほこりにまみれた地球儀をまはせば、
わが夢も、ともに世界の国々をめぐる。
そこに住む人間ども、民族と、異なる国籍を越えてながれるコスモスの伊吹き、
時のながれと物質を貫く一すぢの悲しみ。
世に年たけて猶、夢多いのが非運。
徳を懈り、なりはひのすべてをしらず.
みち足ることなく、女たちの腕もすりぬけて、
ただひたすらに胸ををどらせた。——旅のいざなひ。
あゝ、幼い日の塗り絵の情熱。
心ひかれるのは、この生よりも薫たかく、ゆたかな遠くの人生。見しらぬ異邦の珍木、奇草。
鸚鵡、鳳梨、檳榔椰子、尾ながの黒猿。めが猿。
熱湯の雨のふりそそぐ蘆荻竹をへし折る
大虎の、黄と赤の放縦。
消えてゆく荷上げ波止場の雨ぞらにあがる軽気球。
夕のあげ潮が、朽ちた棧橋の杭をはげしくたゝく。
藳しべや、くらげとともに、
ゆられ、ゆられる赤い底抜け樽よ。
出帆の銅羅のけたたましさ。防波堤に泣く海猫の群れ。
まきあげる太綱の先の錨は、
腕の彫物よりも小さく、しらぬまに船は沖合ひを走る。
水のにほひは、人のこゝろの芯の
根元の憂愁にかよひあふ。
海水でさゝくれた船床に、
腥い魚の腹のつめたさよ。
漂泊は、いつもやさしくのぞきこんで、
「永住の住家も旅だよ。」といふ。
ねどこのまゝで、いつのまにか、
私は、大洋のただなかに彷徨ふ。
船底の風ぬき窻をかぶつてゆく、
波の黄ろい臓ほどつらいものはない。
屋根うら部屋の天窓に
腹をすつてゆく異国の冬空も。
あくがれをいだくおろかさと、
夢をみる貪慾のために、
きえゆく蜃楼を追うて、私の心はむなしく、身のまはりは、つねに一物もなく、
あはれ、この青春も暮れてゆくのに、
さまよふほかのことをしらぬこの私は
公園の木柵に添ひ、屋上の展望に立ち、
もとめて得なかつた幸ひを、落日によびかける。
傲よ。恋よ。すべて二十代の夢よ。
西班牙風な黒い蝙蝠傘の行楽よ。
木馬よ。リリオムたちよ。打ちあげる花火のときのまの栄華よ。
黄金の塵霧。芳ばしい余燼。
けふ、幸福だつた奴はどこの誰だ!
恋人か。友か、慈しみふかい親たちか。いや。
この単的で、矢のやうな思慕は、誰のためだ。
しらない。一生の労役の所得、わりあてられた福分を、
むしろ、この一瞬に賭けてしまはふではないか。
うらぶれたこの部屋のなかを、
満艦飾のやうにかざりわたさうか。
あとじさつてゆく生のはなやかさよ。
そして、夜ともなれば、萎れゆく花々に顔をうづめ、
二十九の歲のすぎゆく脈搏を耳に敷いて、私は、
違い、遠い劇場からの、たえてはつづくメロディをきく。
あゝ、このやけるやうな胸の焦躁はなに。
航海
一 水夫
ある目、水夫らは糸屑玉のやうに疲れてゐた。
花咲く波は、船よひをはこび
つきあげる嘔吐は、いくたびか。
船欄干は、青い海水にうつつて揺れる。
……およそ、火の槍、海獣の奔来は去つた。
世の飜弄をのがれて、船は錨をおろす。
波の青系の梭につれて
うきあがる浮花鯛の群。
ときの声の小島は目の前に、渚には、
ばら色の波がすこしづつ砕けてゐる。
ながい航海のあとで、水夫たちはもはや、
すこしばかりもすゝむことを願はずにゐる。
あるものは両手をあげて叫び、あるものは、子供のやうにしくしくと泣出し、
あるものは、舷から、おもひのあまり、身につけたものを悉く波に捨てる。
かるいものはただよひ、重いものは、糸捲形にころんで沈んでゆく。
二 喪礼
ある夜、われらは世の歓楽に背き、
黒い水、経帷衣の氷山をさまよふ。
いまこそ、千の生活のかなしい喪礼。
峻しい運命の手に送られてゆけば、
霧ふかい嘆きの氷窟に谺して、
ひそかに波はくつがへる。
みるまに、船は、蠟燭皿のやうに吸込まれ、
消えるまの焰にうつる
紅色の帆綱と、帆綱にかゝるちらちら雪。
三 朝
うつり気な愛は、誰のうへにほゝゑみかけるだらうか。
静寂と死の手をのがれて、いま、
疲れた翼は、次の漂木にあへぐ。
たちまち、悲劇的な山嶺をうゝらかに染め、
朝暾は、千万の紅の洋燈をかゝげて立ちあらはれる。
山麓をめぐる鳶褐の落葉松林。
青緑の峡湾の片すみに、
玩具の船がかきよせられる。
さながら、風景は手鏡にうつる脆美な聖画屏だ。
一すぢの煙をひいて、ゆるやかに、一艘の汽船が湾口を辷り出る。
鷗の唄、甲板に出た水夫たちは、
帆檣にさがる垂氷の陽炎に
心目炫耀して、狂ひ出さんばかりなのだ。
人買船
船頭どのは、人買ひの親方。
修験者、傀儡師にやつしてのり込んだのは、
諸国にわけた手下ども。
額のうす毛のやうな白い穂すゝきが、
伏しなびく砂山の陸地をあとに、
沖もやひの親船はいま、重たいいかり綱をどろどろと巻きあげて、
舵子どもは罵り、舷を走り、沖はどんより、雨空に、狂ひはためく破れ帆をあげて。
波はたちまち歯をむいて、舷を噛み、舷をたゝき
舟をめぐつて噛ひ、吠え、背をゆすり、腹をもみ。
北越の泊にいそぐ
かなしい櫓声。
叱声も、さゝら笞の音も、波に消されて、胴の間では
無法にいきるあらくれどもの酒宴なかば。
舟ぞこは地獄だ。吐逆と熱病の人いきれでむんとするくらやみから、
うられてゆくもののうなり声。蚊のやうな読経をすゝり泣。
もたれあひ、伏し重なるからだは、寒気にわななき、髪は塩水にぬれそぼち、
親兄弟をよぶもの。声もかれ、力もぬけて昏々とねむるもの。
都からさらはれてきたみめよい少女がただ一人、
みはりの目をぬけて、艫に這ひあがり、
星もない夜の、黒なみの、
あとへ、あとへ走るのをながめてゐる。
暗澹たる海路にも、寸時、なぐさめるものがあり、
銀泥をこねる燐の波間に、波の背に、
のりあげる行燈くらげ。花笠くらげ。遠花火のやうに消えてゆき、
又、近々と浮きあがる海の都の迎への輿と迎への燈火。迎への歌と迎へのともぞろひ。
茂木、長崎にて
海の夏
雪のやうに白い浜菊のあひだに、
むらさきの海がたぎる。
巨きな飜車魚が、大砲の弾丸のやうに、
ふかい海水の霧色の層を貫く。
赤ズボンのやうな岬の突端の岩礁の熱湯が覆へる。
悪鬼貝に、遠い遠い雷鳴。
海よ。『老憊した世界』の大風抜窓よ!
辛い磯花の匂で鼻の穴を充填しろ!
おゝ、私の脳漿で粉砕する!
虚無よ……
まひるの銀河、私のまうへで、
みるみる碧落の傘がしをれてゆく。
夕
白い岩、夥しい船虫が散る。
くれてゆく淋しい磯だ。
……沖で、重い石臼をごろんろんひいてゐる。
かはいた貝殻、黒海松、鏽錨にまつ直な雨……。
あゝ、私は、濡れてゆくまゝに、海角に腹を掛け、
我生の怠りを洗はせた!
旧い魂だよ。海!
佗しいものは夕、
みのまはりの奈落、波の闘
……遠く、みぞれ色の潮先で
大葉藻の交叉した枝に
竜の落子が立つたまゝ暮れてゆく。
磯
…………………………
海の底もゴロゴロした青石許だ。
——鴉の糞で白くなつたむしくひ岩に釣下つて、うしほと水の槽のなかに私の体を涵した。
おゝ、古い磯よ!
——しらない。悲愁か。窶か。森闲たる景! わが鼻のうへを、蒼い鰯の一群が、ツーと走つた!
…………………………
海の底もゴロゴロした青石許だ!
水の虚落に
五〇噸不足の小汽船が昨夜の船路に疲れはてて泊つてゐる
薄明、白々した磯蔭、私は佗しい小汽船の欄干と一緒に、水の虚落を眺めてゐた。雨の点点立つ海水に、大鴉の影が映つていつた。
あゝ、生よりも暗い処、水の虚落の妙に明るい日よ!
……ただよふものは紅い海藻の屑、
人を螫す、昼光る青白い水母……
そして、みろ、みろ、暗さと疲の底から
小さな鯛の群が、あざやかにもうたつてゐる。
うたつてゐる。
古い港に
古い港の古い石垣ぞひ、海に雨の網目、
あをい塩水で漁夫が、かははぎをピチャピチャ洗つてゐた。
赤さびた銛の先、船は白い虫穴だ!
私は、ただ、橋杭の波よけをうつ満潮をきいてゐた。
すべて昔だ、穴だといふごとき……。
大埠頭にて
『人生は玩具(おもちや)だ』と海は言ふ。秋、槍の穂先のやうにキラキラする水、黒い船影(シルエット)の港よ!爽やかな悲よ!魚樽を投あげ、又、磯臭い島の人達をはこんでゆく、秋色新鮮な小汽船を、蒼空に煤を吐きながら小さくなつてゆく一の姿を、私は、今日も同じ埠頭場の手擦から眺めてゐた。『人生は玩具だ』と、嘔吐の臭をはこびながら、海はいふ!
白い海
擱挫してゐる船材、牡蠣殼のついた白枯れた舵のうへに腰をかけた。炭酸水のやうな青い波がくだけては、私の靴先をぬらしていつた。
砂粒は白い。空は白い。ポカンとした淋しい昼の喪だ。巨人の腕骨のやうな鮫の骨片、うちあげられた海水藻、すべて荒廃れた浜だ。
が、黒い岩礁のあひだには、古い信仰の蠟燭が、消えずともつてゐた。ただひとり涙をながすのには、ほんたうにいい海だよ。
きりたつた怖ろしい岩壁のまつ下には、くつがへる黒い波浪、石垣鯛の佗しい情熱の簇が夥しく棲息してゐるといふのだ。
山上にて
頭のうへを白雲がちぎれてはとぶ、
秋の砂山を私はひとりゆく。
半かけの月。……目の下は遠く、石盤のやうな海面が、冷く、にぶく照りかへす。
悲か。自由か……ともかくもあれ。
白い陽ざしに光る莎草。おひしばの鳶色の実のついた草株、砂丘のいたるところから、銀の翼で飛立ち、秋空を、私の耳を、キチキチ鳴らしては、また叢に落ちる大小の螽蟖……その冷たい聰い魂の声、窶れた生命の、夥しい群でひびく、山上の秋気の、おゝ高いことよ!
出島岩壁にて
夜の出島の鉄橋の下で、朽舟の芥をかつぎあげる満潮。河岸の街燈のあかりの下に猫の死骸がゆれてゐる。
ふるともない霖雨にふりこめられ、闇にあつまる荷舟の群。油煙くさいカンテラをともした五島がよひに私はのりこむ。今夜の海路のくらいこと!波よをどれ。舟もをどれ。魔ものよをどれ。影もをどれ。
関門海峡
関門は、職を失ひ、妻子をおいて、こころは無、ふところも寒い雨の朝、聯絡船でわたるには、なんとそつくりふさはしいことか。鋭い汽笛をきき、炊事場のやうにあつたかい、よその船の汽罐室の賑ひを眼の前にすれちがふとき、私は離れてきた肉親をかいだ。
小駅
黒々とした箱列車(形式タテ、換荷輛数盈/虚 2.2/0.8)がのつそりと近よつてきて、がちやり、前半の車を小づく。そして、また、ぎくしやくとしてあと戻り。美々しい断れ雲を墓石のやうに並べた空の夕暮刻、木棚内の蒲公英の綿が、あるかなしにとぶ。海の近いらしいこの小駅の松林のうへに、私は、おもひもかけぬ、金に咽んだ夕月をあふいだ。
雷、女、果実(くだもの)
遠雷がひびいてくる。海洲のしびにくつついた牡蠣は雷をきくと、じぶんからピンピン壊れて死ぬさうだ。
八つ手の葉が仄かな緑を透かせてゐる部屋の磨硝子――その棧に、早蠅が一匹もがいてゐる――が、ビ、ビ、ビ、ビと震ふ。
女は、まじり気ない金無垢だ。その梨地のまるい肩を撫でながら私は、荒く編んだ籐椅子といつしよにゆすぶつてゐた。
大きな雷が、いきなり、ふたりの頭を噛ぢりにやつてきた。
あつといつて女は、私のふところに顔をつつこんで、せまいところへからだごと入つてしまはうとあせる。その顔をのぞきこまうとすると、必死にくつついてはなれない。力争。くつくつと女は笑つてゐる。
女のからだをふりまはすと、腕のもげた人形のやうにぶらぶらになる。
瞬間! その肉を食いたいといふ熾烈な、野獣にかよふ欲望がめざめた。
鬱屈した感情が一時に爆発すると、私はとめ途もしらずわらひだした。
笑ひ、笑ひ、笑ひ!
きちがひのやうな大笑ひと、雷が部屋のなかをころげまはつた。
笑ひと雷とは、おなじ軌道を走り廻る。
DansLeParc
肉刺を立てた木の下で、夜の手が颤へてゐた。
こゝろよいやけどが、其掌をにぎつた。
現在が私の総和なんですよ。
私の旅度はこれでいいんです。
……恋といふものはどこへゆくのか見当なし。
黒い外套の奥で、女の冷い臀を抱いてゐた。
公園の繁の彼方に、スパーク。
カテイ石鹼の広告燈がばかに美しく変つた。
「もつと、もつときつく抱いて頂戴。」
「えゝ。そのまへにかうしてねむらせてください。」
自然の部屋(ChambredeNature)
僕はいま、僕のこよなきひとのために、自然(CHAMBREDENATURE)と名づけて一つの部屋を提供したいと想ふ。
ひたすらな情愛に身を任せて、方途もしらぬ火熱主義に、適度な、客観的にして爽涼な審美の精神を加味するにしくはなしと、心付いたからである。
おたがひに危険千万な、安住しがたい性格のもちぬしどちに、「いつまでも」といふことは、フランソア·コッペならずとも、はかられぬ言葉だ。しかも、その「いつまでも」だけが、恋する身にとつての切なる願ひでなければならぬ。
それ故、お互は友達である時、知己である時、敵役であるときまでそれぞれ用意して、ただ一つの仇敵、「倦怠」に立ちむかはねばならない。さてこの「自然室」も、かゝる我意図の一つのあらはれにすぎない。
晚春のころから、夏のはじめへ、自然の匂ひや触覚の最も鮮新で、放埓な季節。都会の人の本能は、自然の熱情と合体するはげしい誘惑でひたすらになる。果実の味、しぶきをあげて水に身を投げ出す艘、登山のよろこび、海水旅館、さては航海……等等と胸ときめかすことばかりだ。
そして人は、店飾や、町の娯楽場や、レストランなどをも、涼しいせゝらぎや、樹蔭のさみどりで装飾しようと試みる。泉や青空の青、碧潭や峡湾のふかいコバルト、大洋の紫、岩礁の紅、それら単純で強烈な明色の感情のなかに、デリカな都会人の魂はとらはれ、惑溺し、単純さの無限のはてに、はてしもしらず迷ひ入る。
さて僕の自然室も俗塵の巷のまつただなかにありながら、雑鬧繁華からまつたくきりはなされてゐる。
まづ、幽邃な山間の、羊歯おひ繁る、さんせうのうを棲む溪流か、馬尾藻しげる海底のこまかい水泡で僕の部屋の光を調味したい。そのなかに、立のぼる名香の煙のやうな柱や、恍としてゐる壁や、調度類に、たえず、清流のあはいトレモロをふるはせておきたい。床は水ガラスで張りつめ、色彩はすべて影と反響、非実在のはかなさ、目的ない昇華、かげらふのやうなサンチマンだけを室内に徂来させておきたい。
そこで僕は、純白な大理石の卓をおき、日没の琥珀や海底の青や、オーロラの薔薇をすかしたリキュールや、清涼飲料を藳で吸ひあげる。
わがよき人よ。この部屋のあるじたる君は、ナヤードたちにかしづかれ、シレーヌどもにねたまれつつ、一糸まとはずながながとよこたはることであらう。
仙人掌の邦
水のこころの硝子もて、はりつめられた、ここは鬱鬱とした温室である。
そのいく段の木棚のうへには、おびただしい仙人掌の小鉢が数百千箇も勢揃ひをしてゐる。物のけはひは、深くしづまりかへつて一のやうに単純なこころがここの薄みどりの世界を領有してゐる。
垃ぶ小鉢には……「竜王丸」「河内丸」「獅子王丸」「千代田錦」などと銘が、経木に墨を滲ませて、一つ一つにさしこんである。海胆のやうに針で蔽はれたものや、球形、円屋頂、きら星打つた兜、グロテスクな扁平棍、うちは形、蜘蛛の巣に巻かれたやうな、錦でつつまれたやうな、さまざまなかたちが、その尖端におもひもかけず、淡紅や鬱金や紅玉色の、色あさやかな花を咲かせたのが、かう一緒にならんでゐると、まるでビルマか、サイアムの寺塔、伽藍をのぞむやうな、悲しく単調な、東洋的憂愁にさそひこまれる。
悒鬱でしづかで、奇異なこの仙人掌の邦よ。畸形な植物の夢よ。
われらふたりが訪れるには、なんといふふさはしいところだらう。
ふたりは、ただ手と手をにぎり、しづかに、全くしづかに足音をしのばせて、この世界をながめてゆかう。物音なく、力感なく、強い欲望も、騒擾もないこの幽遠な異郷のはてへ、青のなかの青へ、われらふたり、世の動乱も、悲しみも、怨訴もふりすてて言葉なく、疑もなく、肯定もまた否定もなく、ふたりゐるといふ際立つた認識もなく、むすばれたまゝの心と心をぬりこめられてゆかうではないか。
仙人掌の邦こそ我らがサンスーシー。
——六·五 銀座にて
土管と季節
眼と眼とがさがし出すと、もうすぐ蝶の一つがひのやうにもつれあつて飛んでゆくといふ、たのしい邂逅のきのふけふだつた。退屈といふものを苦に病むには、まだ二人のあひだに目新しい恋の仕組がありすぎた頃のことだつた。
花崗石の石くづや、石灰の粉が白く土にちらばつてゐる河口の荷上場に、大きな土管……みあげるやうな常滑焼の土管がいくつも竝べてあつた。二人は、そのソルソル辷る土管の内側へ潜つていつた。そして立膝で顎を支へ、身体をまるくかがめてそのなかで、竝んで坐つた。ほのぐらい陶製の円筒の煤けた内側面は、洞穴の奥のやうにロマンチックで、悽愴の感さへ加はつてゐる
いい匿れ家だ
とてもいい、すてきね
女は、この狭い土管の中で、金茶色の繊奢なぬひ飾りのある、光線の加減では、ほとんど金色にさへみえる琥珀のパラソルを、土管の一方の出口をふさぐやうにかちりと開いた。それは男が、女の顔ちゆうを吸ふための目的であつた。パラソルにかくされた方の出口、即ち、二人の左手の土管の口からは、轟くばかりな派の景色がまるく切取られ、飛魚の鰭のやうに燦々とした真夏の海があつた。パラソルがそのうへへひらいてゐるので、パラソルのあひだからこぼれる景色が一層、強烈で、蠱惑的であつた。
しかし、土管の他の一方の出口、ふたりの右手の方の景色は、また、なんといふ錯覚なんだ。それは、うそ寒い、それこそねぶか流るゝばかりの冬の川濠の景色なのだ。曇つてゐて、悲しくて、どこか粉雪でもチラチラとふつてゐさうなのだ。
ふたりは、その住まふ土管の右と左に等分に、相反する季飾を持つてゐることにスッカリ当惑して了つた。
一方の出口には恋の享楽があり、一方の出口は、恋の放浪と彼らの恋の右と左にも等分に、この相反する二つの季節を眺めつつゆかねばならないのではあるが……。
コスモスの宿
この若い話をわらつて下さるな。秋のきれいなあを空のなかにコスモスの花が白と紅とに咲き乱れてゐた。その咲きみだれた花にも、垣根の竹にからくも倒れかかつてゐる曲りくねつてひよろよろと背の高い紅茎の大きなたばにも、あざやかな秋日の陰影がこまかい。
コスモスの花に明まれたガラス窓の書斎にゐて男はガラス一重へだてて、秋と。コスモスの花をこの日ごろながめくらした。花のなかの虻や蜂がガラス窓へ身をぶつつけては外れていつた。そのよごれたガラス窓の外には、やはり、よごれきつた薬瓶が忘れられて、底の方に黄色い薬水、目もりのすちが悲しい秋の陽ざしを招いてゐた。涙のうへへ涙が流れて、そのあとがかはいては汚れ、汚れては濡れ、またかはきして、秋のガラスはいたづらにすゝけてふるびてゆく。悒鬱で、爪の美しい彼は、すゝけたガラスの秋景色のなかで、少年の一番最初に理想するやうなきれいな恋について考へながら、やはりすゝけていつた。
否、そのきれいな恋のために悩み、いたみ、恍惚とし、待ち焦れ、遂にはその部屋のうちを一歩出ることもいとふやうになつてしまつた。
彼女……待望の彼女が、ある日、忽然として彼の面前に出現した。彼女はきまつたやうに日毎、日毎の、一日の昼さがりといふ時刻に彼を訪れ、彼の前の木椅子に坐つた。彼はふるへる声で一言二言はなしかけた。なにを話したのか、けふはよいお天気ですね、めつきり冷えてきましたね……とそんなことだつた。そして、それだけで時間は翼をうつてとんでしまつた。彼が彼女をやうやうに正視しうるやうになつたのは、よほどの日数のたつたあとからである。彼女はコスモスの花のやうにきれいであつた。ふたりのあひだの交りも、それと同じやうにしづかで、上品であつた。ふたりは、お互の顔のそばで、熱くさい息をしたこともなかつたし、又、ほんのかすかに指先をふれあふこともしなかつた。時刻がくると彼女はしづかに立ちあがつて
「また明日ね。」
さういつては、斜に荒木をうちつけて、青ペンキを塗つた入口の扉を半分位あけて、そのあひだから、吸はれるやうに出ていつた。彼女が誰で、どこへ、どういふ風にかへつてゆくのか彼はしらなかつた。そのことを彼女にとひただすこともしなかつたし、あとをつけてみとどけることもできなかつた。むしろ、そのまゝの方が興深くおもへるのかもしれなかつた。
コスモスのやうな恋。そんな言葉を蔑まないでくれ。なぜなら彼ら二人の恋は、ふたりの肉体の大きな虚落のうへにでなければ成立たないほど、至純なものなのだからだ。例へば秋といふ深い衰へのなかでのみコスモスの花があんなにやさしいやうなものである。
ある日のことだつた。殊に空がふかく透徹してうつくしかつた。不潔な肉情の洗ひ去られたやうな彼女の膚は、むしろガラスのやうに冷たかつた。
内臓や骨が透いてみえさうに清らかだつた。二人の会話のあひだに、男の鼓動がはやまつてゆくのに反して、女の呼吸は寝息のやうにやすらかにきこえた。女は遂に眼をねむつた。胸苦しさうにうつむき加減になると白い手巾を口にあててはげしい咳をした。
手巾が花をちらしたやうに赤くなつた。血!床のうへへポタポタとそれが点を落した。男はあわてふためき、壁にくつついた木棚のうへから、オランダきり子の古風なコップをつかんできた。女の吐く血がはげしい泡を立ててふつとうするやうに、ごぼごぼと鳴りながらそのコップを朱肉色でづしづしとみたしていつた。
空骸のやうな女のからだがはじめて、彼の肩に支へられて立上つた。女のからだは、冷たさがしみとほるほど冷えきつてゐた。女は男にもたれながら、かすかにほゝゑんだ。そして、きこえないほどかすかな声で、しかしりんと冴えて、
「ね、また明日ネ。」
といつた。
ふかい感動と悲しみで、男の心とからだとがわなないた。
彼女は去つた。木の卓のうへには、やや一ぱいに血を充したコップに、泡が固まりながらはぢけてゐた。男の掌がコップにふれると、人間のあたゝかさがぴつたりとふれる。コップが生きた肉体のやうに錯覚した。……彼女の体内にも、こんな血が流れてゐたのだ!
彼女の肉と肉をわけて、この血しほが一分間まへまで迸つてゐたのだ。男は、そのコップのふちに唇をつけると一気に自分の口に注ぎ込んだ。女の血が火酒のやうに男のからだであばれはじめる。
透徹した、しかし、創でいつぱいなガラス、おゝ、それが粉みぢんにくだける日よ。
その日よ。
そんな詩篇が彼のノートのはしに書きつけてあつたが、この祕密な会合のはての日のできごとは、彼のその予言的な詩の意味を偶然にうらがきしてしまつた。すなはち彼の恋を、しづかな友情の境に止めておくことができなくなつて彼は、どのやうにしても彼女のからだの一部を所有しなければならないと思ひ立つたのだつた。
彼女の凍りついた手をただ一度にぎるだけ、彼女の曙さした紅唇をただ一度うるだけ、それですべては充分である。彼は、その日彼女が入つてくるなり、彼女が木椅子にいつものやうに坐らうとする瞬間、抱きとめるやうにして、いきなり彼女の肩に唇をつけた。舌が刺されるやうに痛かつた。痛かつたのではない。冷たかつたのだ。男は夢中になつて彼女の首つ玉を抱いた。世界がまつ白になつたかと思ふほどはげしい音響がして、彼女のからだがみぢんにこはれた。
彼女といふ存在は、幻象の世界の存在で、始めから実在しなかつたのだ。ただ彼といふ一個のプラトン主義者が、たれこめたガラス窓の内側から、ガラス窓にむかつて奇しくもうつしいだした毎日の幻想にすぎなかつたのだ。そして今、そのガラス窓の一框がうち割られて、ガラス片があたりいちめん、床のうへに散乱してゐる。うち割られた空虚なわくは、秋の湖心のやうにふかい青空、奈落の闇をひらいてゐるが、もうコスモスの花はすがれて一輸もない。そして全人類の歴史が飛込んでしまつてもどうするわけにもゆかないほどふかい、おそろしい碧落——それがそつくり、冬の方へずり落ちてゐる。
附録
海鷗
神代ながらの火の巉岩に
藤壺貝が静かな時恒の轟を聚りきく。
伝奇的な紫の岩洞の奥に神馬らの鬣は踊込んでゆく。
清澄な朝の全海景は潮煙に送られてゆく。
其時岩礁の大紺青を
鷗らは、金の聖燈の如く裕々と渉つてゆく。
プラチナの燈台へ笛吹つれてゆく。
雨景
終夜、海は呪詛の法螺貝遠く吹きつづけ
闇の岩礁に海神族は慟哭する。
あはれ、我殉情の夢は、波底千々に泣疲れてゐる。
岩蔭の紅藻類には一つ一つ
明るい花鯛の群が停泊船の如く眠つてゐる。
郷愁の洋燈は揺あげ又揺下す。
神馬藻、小紋草の遠森は不動に繁つてゐる。
侘しい雨模様の海底明はなれゆく。
燈台にて
沖へ私は、鱗族ら盪漾する沖へ、沖へ出たい。
最も生甲斐ある生を知りたい。私は若い。
競争と焦慮の彼処から帰つてきた。俺は疲れてゐる。
ただ!松樹林の渚へ、送らせたまへ。
白昼、燈台の焦灼岩から両脚を垂れ
私は暝目し、渦巻く濤の二の言葉をきいた。
紅藻の森
石蚕の峡間に青い塩水が清麗に走つてゐる。
曇り日の映いにはた蔭にさんご藻、石花菜の類が美しく蔽ふ。
……花さく磯巾着や、うにが寛かにもつれうごく。
おゝ! わが人生も明るく孤寂なれ!
わびしい霰河豚の一隊が
ものうい単一な儀容が
花藻の繁の間を並んでゆく。
隕星
闇夜、黒玻璃の海を白浪が罅入つてゆく。
おびただしい小蟹らは、
神祕な星の花の下に、聚りうごく。
おゝ!
夜夜、私は岩に耳あてて、
海の涯の魚簇のはげしい混乱を、
または、天上界の雨とふる消息を全身全霊にきく。
忽ち、紅の隕星一つ尾を曳いて沈む、
岩礁、岩礁は悉く驚き鳴擾する。
古靴店
赤、青、黄の強い原色の郷愁(ノスタルジヤ)……
濡れた燕がツイツイと走る五月の雨空、
狭い港町の、ペンキの板囲(いたがこひ)した貧しい古靴店がある。
店一ぱい、軒先にも、店にも。はげすゝけた古靴、破れ靴、
大きな泥のまゝの長靴や、戯(おど)けた子供靴迄
すべて、この人の生に歩み疲れ、捨てられたものらの
朽壊れた廃船舶(まるきぶね)が聚つてゐる。
……おゝ、哀しい哀傷的(ユーモラス)な港景だ。
人情よ、零落の甘さ、悔もなさ、慕しさよ。
俺は、只俺の人生が泣きたくなつた。
熱帯林
あし、白日、熱国の大森林、
青色硝子の浴室の格天井、
さかんな植物の層の建物は、蒸歓の涯の寂寛にかへつてゐる。
このふかい緑のMélanchlyからめざめ
たちまち、錦蛇は、その重い金斑の巨身を
雪とさく葛花ど、麋角羊歯を揺つてしづしづと辷らせる。
芭蕉の葉の明い水槽は傾き
一しきり、潴水は水中にザッと音立てて溉ぐ。
春の一日の静寂を破り、
大音響は狂人の如く反響つてゆく。
礼譲
秋気崇高いまひる、湾口にある潮臭い船魂神社、青空たかく凛として煙入る松樹林(白雲と鷗の影が過ぎてゆく)に私は坐り、銀線ちらばふ小湾を瞰下してゐた!
悲しい歓喜が湧上るやうだ。新しい二つの礼譲によつて、私の旧い騒心も今は少しもない。
Tracta!ta!ta!ta!……
赤いトロール船が一つおもちやのやうに長閑に
水脈をひき、斜になつて今湾口を出やうとしてゐる。
大村湾にて
螺を砕く 湾、簗は黒く海中にあり
蒼鷺らは、萩の穂先の、青空を翔ぶ。
秋は、おゝ、陽も窶れて白い。
空、この鏡はまるで泣いてる様だ。
葦の根のあひだに坐つて私は一湾の聖い悲を捧げてゐる。
海辺の家
男の胸に顔を填めてゐると
かなしさがキリキリ目頭に集つた。
男の肩幅は浜防風のゆれてゐる
頑畳な岩のやうだつた。
七月の夕陽を受けた障子の棧には
唐桐の花の影が濃く揺れてゐた
絶間ない遠い潮騒……
食事の後まだ片付けない七輪の火が
白く濁つた灰をかぶつて
湯がしんしんと音を立てて沸つてゐる
あの湯をのどへ注ぎたくなつた。
ぢつと天井をみつめて
皮肉に口を結んでゐる男
私は一日一日目立つてふくらんでゆくお腹を
そつと撫でた
男、——
それは女にとつて
時にはなれがたい仇敵である——森三千代
小曲
A
雛介子の首は悉くうなだれ
水鉢の木賊に、金の斑が潜る。
六月の樹棚の下に、けふは、あかるいパラソルがあつまる。
二人
樹蔭の荒木づくりの机の前に坐り、
銀の匙で、まつ赤な苺をつぶさう。
記憶せよ。二人をめぐる言葉を、囁きを、ちかひを、光を、味を、悩を、接吻を、
おゝ明日はない一際のものを……。
B
曇り日の小松林に薇生繁り
笄ほどのほそい松の葉が、雨の露を突刺す。
猜疑と不安にみてる我心よ。
ただ、潇洒たる此自然の空にあらう。
そして、君の手を把つてあるときだけ、
……神さま他はみなうそでもかまひません
あゝ、この漏刻丈を信じさせて下さい。
——五、一七、石神井の池にて——
C
夜空に螢の群飛び、地には燭星輝やく。
熟れた麦の穂波に、
流れ星ははしる
おゝ、君よ!
おほひなる聖女神体よ、
いまぞ、君が身を
軽々とかゝへあげよう
この世界より高く高く
琴座と、白鳥座の真只中に……
——七、ニ九、碇ヶ関にて——
D
湖水の水は、生薑水の泡の如く
淡白で、辛い。
短艇(ボート)の赤と白が鮮新に澄明をけづる。
君よ! 二人のコップをめぐる八甲田の山襞は凝つて碧だ。
おゝ! 意勢のいい炭酸飲料と一緒に、
われらの恋を、
われらの風景を痛飲しよう。
——八、二六、十和田湖にて——
E
舷の下側の水底は清冽に
黒い糸藻のびあがり。
蠑螺の匍歩く様も覗かれる。
美しい十和田の湖よ、短艇漕寄せて過る蓬萊嶋から
鷹一つ青空高く舞ひ立つ。
清い、清い山水は、窓の如く拭はれてゐる。
我らの恋を明澄な湖心に放て。
『君よ。あの白雲の裡に八甲田がある』
——八、二六、——
F
はや、櫨紅葉する十和田社の森よ
ふたりの心も、膚も、葉露にぬれる。
樹蔭の径、幽暗なれば、君がその素足白く、あゝ、赤と黒の君が塗下駄は、
朱と黄の落葉を踏んでゆくかな。
G
雨上り
るり色の空と若草の丘陵……
大胆な、明るい大鏡のやうなその空のなかにおまへ、おまへのオリーブのパラソルもつた姿が
クッキリと塘の接線の上をあゆむ、
花束のやうな袖よ。プリズムの裾よ、軽いフエルトよ
陽炎ふその立姿は
あゝそのまゝ昇天してしまひさうなのだ。
H
秋立つ朝
黄菊やとくさなど陽にうきいで病弱のひと、谿川のふちに、
白い歯磨粉を散しながら下り立つ。
おゝ、けさからすつぱりと秋。
空も高く、万物新鮮だ。
淡紅の頰に樹の枝の縞
痩せた頸すぢになびく黒髪も秋風だ
——碇ヶ関にて——
開泳
めざましい春の解氷は山谷に轟く。
堅氷かすかにひびき
音立てて割れ
狂歓と涙の極致。氷と熱湯の洞を
金色の陽炎咲き狂ひ
おゝ!秋の胸を凄まじく雪崩れてゆく。
人は、その感情を恋と名称く。
真率な戯画
どんな粗末な紙でもいい。どんな安つぽい絵具でもえらぶところがない!
(それが、私の現在一番、心を打込んでやつてみたい製作の構図なんだ!)
性のまゝの赤、青、黄、緑、……諸君は、これらの原色を卑めるだろうが、私の情熱には、こんな単純なこんな直接な、いはば、血と、命を一緒におし出すやうな色彩は他にないのである。
藤の花が水面に垂れた太鼓橋、そのうへに私の……彼女が誇高い様子で佇んでゐる。おお、そんな一枚の肖像画、否、一枚の聖画といつてもいい。何故ならば、その画面のもつ愛恋と悲哀が必ず人の魂を涕泣と慚愧の清い心にまで導いてゆくからである。彼女の花簪で一ぱいな頭のうへには、桜、桃、李の花の枝をたわめ、橋欄の下には、菖蒲、杜若、そのかげには木の八つ橋がかけ渡してゐる。すべての季節が、彼女を讚嘆するからである。
私の感情の祭であるところの肖像画に私の稚拙な心をどう表現したならばよいのであろうか?
紙の余白、下の方には海の一族、魚燈、鎗のやうな火箭魚、竜宮の使、花鯵、宝石羽太、針河豚、夢のやうに明るい桜鯛、胴体ばかり切つたやうな大きなまんぼうなどの魚の簇を美くしい海藻の林の間に賑やかに並ばせる。
紙の上の方には、大陽と月、鷲、白鳥、熊さそりなどの星座、燦爛たる渾天儀が廻転つてゐる。右の肩へは彗星、左の肩からは仕掛花火が空へ打上げられる。
飛行機、飛行船、ゴム風船、色々なパラソルなどが、臙脂色の空に祝日のやうに上る。
または、燈籠といふ燈籠、虫籠、走馬燈、日本、支 那、アルゼンチン、暹羅などの国々の旗、笹の葉に短冊を結びつけた七夕飾、鯉幟、まゆ玉、布人形のたぐひが彼女の身の周に縦横に飾りつけられる。大王松、杉、桧、橧などの行儀のいい植林が、儀仗兵のやうに彼女の左右に立ち竝び、それから色々な貝の類、帆立貝、悪鬼貝、子守貝が、松毱や海盤車や海栗とまぢつて足元に竝ぶ。——そこらは悉く、金粉でちりばめられる。
黒い小蒸汽船には蒸汽船と同大の頭でつかちな無格好な水兵たちに手をふらせながら、紅や、浅黄や、紫の断れ雲を、そのうへに走らせたい。おゝ、こんな凱旋的な一つの画面が出来上つたとき、そのとき、恋人よ。恋人よ!
とび交ふ燕や、茫髪の獅子や、尖字塔(オベリスク)や、富士山や、十二階や、煙突や、電信柱や、シグナルと一緒に、この人生に笑ひ、唄ひ、狂歓し酔ひ、脈打つてゐるなまなまゝの万象風景と一緒に、郷の肖像は真に生きたのである。生きたのである!!
蟹
候鳥と一緒に、沢山な恋が移つて了つた。
海浜は又、蟹の族に占領された。
砂山のおほきな斜面に、ボートや、水上自転車を曳きあげたまゝにして、夏が去つたのだ。くる年年の秋毎に、男はひとりのこされて、他人ごとならず、『候鳥と一緒に、沢山な恋が移つて了つた』ことを淋しんだ。
一杯の清水のやうな空に、脱衣場の木の台だけが、裸かで捨ててゐる。そこまでのぼつていつたり、そこへ腰を掛けたりして、彼は日をくらした。
空砲をうつやうな海轟がきこえた。
みるかぎりひろい、なにもない、白々とした砂のはらと、そのはてに銀の末広を展げたやうなしづかな渚とを、男は空にみた。
男は、ハッキリと悲しかつた。
『一つの海水帽もない。パラソルもない!』
空の一方に、美々しいきらゝ雲が、夕焼ける頃まで——だが、それは、冷い玻璃窻にうつる釣洋燈であつた。煙草の火をつけることだつてできはしない——彼は、さうしてゐた。
かつて、彼のこゝろは、憂欝で、彼の瞳はあかるかつた。それは所調、読書がなせるわざであつた。だが今、彼の瞳のはうがうるんで彼のこゝろはかへつてあかるかつた。それは、恋のなせるしわざであつた。
『わたしの臆病な快楽、思想が、私を永く実人生の圏外にひまどらせた。それは、海水帽やパラソルのゆくへに就いては、ただ、徒らに哀惜するだけに過ぎない……』
『海水帽やパラソルと同じやうに、女たちのからだは、派手で明るかつた……。
S子もさうであつた。T子もさうであつた。N子もさうだつたし、またH子もさうだつた。しかし、私は、彼女らのうちの誰とも、恋仲ではなかつた。いや、それが海水浴の恋のはかない所以だ。私は、H子を恋した。私は、N子を恋した。私は、T子を恋した。私は、また、S子を恋した。そして、それらの女達はことごとく、私から移鳥と一緒に移つてしまつたのだ!
………………………』
脱衣場の木の台が、燻づた空のなかに、黒い余燼のやうにのこされた。夥しい蟹の群の砂を匍ふ音が、サ、サ、サ、サ、と淋しくきこえた。
蒹葭のふかいなかを彼は歩いた。松籟のなかを歩いた。新造船の新しい木屑の香のなかを通りぬけた。水蜘蛛が影のやうにさまよふ佗しい石塊の渚を歩いた……。
しかし、どこへいつても、秋のふかい、悲愁の新しいばかりだ。
秋晴の高い、海の匂の強いその日だつた。
それで、夜になると、星座が殊に美くしかつた。無花果の葉蔭の宿の野天風呂で、彼は、深い海鳴を聞いた。
風呂がぬるいので、焚付けてもらひながら宿のおかみさんから、彼女が町の勤先から苦労して出てきたやうな話をきいた。男はそれきゝながら、H子らのことを考へてゐた?
『海はスッカリ淋しくなりました。
さう書いて彼女らに手紙をやることは、あながち不自然ではあるまい。だが、自分にとつては、不自然でなくとも、相手の現在にとつて不自然かもしれない。女達が単に、海水着を脱いだといふ理由をもつてもそれは、さうだ。……そして、女達は、さう云ふ風に思惟し、行動するものだ……』
自分の仕事が、心の弱さから何一つまとまらず、はかなくすぎてゆく年月の齢が悲しかつた。汽罐車のやうに、風呂の煙突から、火の粉が闇にちつた。
『有難う、もう熱くなりました。』
くらい流しの上り口のバケツのなかで、カサカサといふ音がしてゐたので彼は、湯上りの下駄ばきのまゝでのぞいてみた。海藻の燐のなかで沢山の蟹だ!宿の子供がいたづらに捕へてきたのに違ひない。
彼が指をつつ込むと、弱い爪先で、ひつかき廻すやうな騒音が起つた。さうやつてみると、蟹といふものも、不気味な存在であつた。
床へ入つてからも不思議に蟹のことばかりが、考へられた。
『機械であるばかりの淋しい生物の群が、もう、海岩のどこをも占領して了つた。その固いからだの響から、私たちは、命数に関してきくことができる!そして、この神祕な生物は、一つ一つ、花やかな海水浴と一緒にはなりえないやうな、弱いこゝろをもつてゐるやうに思はれる……』
……………………………。
翌朝も、もつと爽凉な秋であつた。
バケツは、もうからつぽであつた。泥のなかにふみにじられて、鋏も、あしもバラバラになつた蟹が、白い腹を出してゐた。早くも子供達の贄になつたのであらう。
歯磨粉をちらしながら、海へ出た。深呼吸をやると、蝕んだ彼の肺が新しくなつたやうな気がした。そのとき、彼の、やはり痛んだこゝろがクラクラとした。
濡れてかがやく反射のやうな渚の銀のうちへ、小さな蟹が無数に黒くふりまかれて、壮大な潮を招いてゐた。
海辺日記
『君、すべての男は……すべての男だよ。一人でも多く異つた種類の女を慾するものなのだ。もし、さうでない男が在るとしたら、その男は無知識であるか、或は、臆病で自信がないといふことだけなのだ……』
と、Mが云つた。
『あなた、ちつとも女に就いて御存じがないのネ。女は、あなたのやうな物質的に貧弱なものの御考方に御相伴したがらないものよ。え、一人残らず……贅沢な飼猫になりたいのよ。誰だつて、妾になりうるのよ。もしさうでない女があるとしたら、その女は、そんな世界をしらないとか、或ひは、自分の力に就いて、魅惑に就いて自信がないとかいふこと丈なのですわ……』
とH子が、正面から私のSimpletonを揶揄した。
およそ、さうした男女の交渉の栄える海水浴場だ。飛込み台や、短艇と一緒に、それもはかなく取片付けられて、ただ秋の海、秋の砂浜に、秋めかしい長雨のシャボシャボと降りつづけるのが淋しい許であつた。
どんな女でもいい、私の現在の心の寂寥をきいてもらふことのできる人ならば……と思ふ切ない心の下から、猶、月並な結婚はしたくない。恋と言はなくても、せめてそれらしい理解があつてから、などと思ふのが、私のこゝろの憂欝の原因であつた。又その心弱い引籠りが、美しい想像や、不測な変化を、ひそかに庶幾ふ理由でもあつた。
渚へ出た。牡蠣殼のくつついたそだの墻ど石塊がスッカリ濡れて冷く、白く光つてゐる道を、私は磯の方へ歩いた。螢光を放つ水母が数多——泳いでゐるとよく、人を螫す奴だ。——馬尾藻と一緒にうちあげられてあつた。
雨を妨げて、岩のなかの墓土に坐つた。土はかはいて、黒い焚火の痕などがあつた。白い雨のなかに、岩蔭の壺でホーッ、ホーッ、と、いふ声をあげ、てんぐさ採が時々、首を出しては息を吐くのが、眼の下にみえた。
海の原始、海の素純な精神が、私を淋しくし、私の恋を一層、非快楽的に、回想的なものに思はせた。
『H子は、N子は、T子は、S子は?彼女らは、さうして一夏ぢう恋で戯れてゐた。彼らが、飛込み台や、短艇で戯れたと同じやうに……それでいい。何か他に必要なものか?もし、私のやうな心を強ひたなら、彼女らの興は一時にさめ、彼女らの生きやうを失つて了ふだろう。H子は、S子は、T子は、N子は、彼女らの恋人とも、暑中休暇とも元気な別辞をして、自由に飛立つてしまつた。私ひとりに大きな寂寥を残して、
……………………………』
シャボシャボといふ雨の音が、夜の海へもそゝぎつづけるらしい。
雨に封じられたくらい沖合は、都会の空を思はせた。豆電球(イルミネーション)が悲しく、映像して消えたかとみえた。燈台の燈が。沖を航毎してゆく汽船の檣燈か。みえわかぬほど蕭索たる涙の夕暮であつた……。
手紙が来た。その束のなかから、Mからの消息一通があつた。不思議にときめいて、封を切つた。
『秋の海がうらやましい。君がうらやましい。僕はまた、たうとうF子とも別れてしまつた。至極簡単にだ。だが、君はせめてくれるな。別れなければならない時機が、僕にはわかり過ぎるのだ、その時機を過すと、僕らは、僕ら同志の恋を失ふばつかりでなく、お互が一生涯不幸を背負つて歩かねばならなくなる危険がある。僕のエゴイズムが本能的にそれを避けるのだ。女から女へ、そして段々僕の夢がなくなつてゆく。僕は、段々……女の骸骨を抱きにゆく。
君がうらやましいのは、君はまだ、女から何一つ君の夢をはがした事がない事だ。僕の悲劇は、僕が矢張、君のやうに夢の外から女をみてゐた時のやうな女を、その後一度もみた事がない事だ。僕は贅沢な猫や、魔女を抱きながら想つてゐるのは、いつでもその頃の女といふものなんだ。F子と別れた。僕の寂寥は、深い淵のやうに動揺がない。F子といふ一つの影が去つた丈だ。だが次の影がなくては淋しくて生きてゐられない僕を、君はむしろはかなんでくれるだらう……』
人間の生活の表相とは似つかぬ、鉄管のやうなくらいものにゆきあたつて私は、淋しくまた、安堵の念もあつた。だが又、その手紙の安直な詠歎が、私を出しぬいて楽しいときにはクルリと変るのだらうといふ嫉妬が私の心をいためる種となつた。そして、淋しさが一層、深くなつた
『F子と別れて了つた!もし、私であつたならば、そんなことはできるものではない。どんな女でも、例へばT子でも、N子でも、S子でも、H子でも、もし、私のものとなつたならば、私から捨てるやうな事は、決してあるまい。私はその女につかまつて、一生懸命愛するより他にはない』
と思つた。
書状のなかには、故い学校の校友会のすりものや、母からの帰宅をうながした書状なども加つてゐた。幼妹のことなど考へて、帰る家のことが、妙に涙ぐましくさへ思へた。
宿の二階の手擦へ出た。雲が明く雨が霽れて、檣の櫛枇する港景が、檸檬でも切つたやうに新鮮にみえた。
郵便船が、沖に自由に停つてゐた。
私の頭には、あきらめと安堵に帰るねがひが、悲壮なメロディーを繰返した。
『今では、自分が恋をするのも、他人のことでも、どちらでも同じことではないか。
魂も、またからだも弱い私には、老母や幼妹の許へかへるのが一番の救はれようだ!
帰らう。明日すぐ帰らう。軽いバスケット一つを提げてR通ひの人にならう!』
私は心が生々として、殊に別離の新しさでうごくやうにみえる海景色をながめた。
秋の女
小さな蝇が、消硝子の窓の北陽で脚を揉んでゐた。
け遠い金網の影が落ちた卓により、男は、純白な仕事服姿で、蠟模型の発疹いた女性の〇〇を彩色してゐた。石膏の型の壊れたのと、その破片が乱雑に、木の床のうへにちらばつてゐた。
陳列棚には、沢山な手、足、顔、肋骨のあらはれた胸部や、背中など、身体の断片や、皮膚の一部分が、紅斑に蔽はれたり、潰瘍したり、腫瘤をくつつけたりして竝べてある。それらが、ガラス越しに、殊にも鮮かで、悲しい。
秋の白い室に幽閉されて男は、毎日この壊滅の表象と一緒に、暮してゐたのだ。
『美しいな!……』
と彼の敏感な心がながめた。
『潰瘍の局部ほどめざましい美観はない。それが、人々の神経を、壊亡の不安で痛めない限りはである。何故となれば、彼ら微細なものの仕事も、根本に於いては皆正当だからである。』
男は、さう云つた、恐らくは正しい観念にまで到達して、この異常なモデルを取りあつかつてゐた。
発疹は、初期黴毒疹である。充血した〇の内部の、豆子ほどの瘡口を、彼は、卵白色に塗つてゐた。カクッと筆を擱いた。欝屈した疲労を、長い、長い伸びにして、身体をうしろへ、椅子の倚懸を、大方半直角になるほど押した。たつた一人きりだ。彼は、パッパと煙草をふかした。
XX病院附属標本製作室は、空しい青春の流謫であつた。男は、そして頭のなか丈で恋を考へてゐる青年の一人だつた。
窓を開いた。金色の葉が、騒擾して一どきに、走つた。
『秋は、先天皮膚結核のやうに清い』
と、彼は、考へた。
男は貧乏だつた。だから、男は恋をした。女は貧乏だつた。だから、女は恋をしなかつたといふのと同じやうなものだ。男は、種種な過程を過ぎて、女と一緒に、散歩するところまで漕ぎつけた。恋の一番企多い時機だ。こゝろづかひな時機だ。
それと同時に、彼のこゝろのうちには、彼の現在のしごとが、彼らの恋にも、悪い影響をしはしないかといふ危惧がはじまつた。だが、その危惧は、危惧だけには終らなかつた。
彼の恋が、そのためどんなに不幸になつても、しかし、尋常でない感覚が彼の心を痛め彼の純真を封鎖したと考へるのは当らない。
むしろ、この恐ろしいまで現実性を持つた感覚が、甘美な恋を陶酔するには、審美眼をあまり、根本的な対象にまで、おしすゝめすぎてしまつた……さうした悲哀とでもいふべきであらう。
二人は邂逅をした、XX病院裏の淋しい小路で、墓地の鉄扉に添うて、公園の噴水がかれた池の畔で、風と木の葉の音許をきいた。二人は、肩を押付けながら歩いた。男は、女の横顔を偷視して
『この雪白な皮膚が解体しはじめたら、どんなに美くしいであらう?……』
と考へた。
女の右の頰をみて歩いてゐる時には、反対の左側の白い襟首に、拇指の入るほどの瘡穴が、暗くポッコリと開いてゐる。左の頰をみてあるいてゐる時には、反対に、右の方の襟首に、それがある。……さうした仮想が、彼の恋を大変に悲壮なものにし、彼の感情を純潔なものにしていつた。
男は、わななきながら女の冷い手を握つた。
騒々しい枯竹の中で、網糸に釣られた黄ろい幼虫が、クルクルとまわつてゐた。竹の斜影で、女の顔が、透くやうに美しくみえた。
男は、歔欷いた。女も、真似をして、キラキラ光る涙粒を睫毛の尖に宿した。
二人は、そこで、最初の接吻をした。
『人生の魅惑が自分には深刻過ぎるのだ。形而下の物性ほど、それが深い。形而上の力が、それを制御できなくなりはしないかと思はれて、不安になる。あらゆるMoralの極限をたよらねばゐられない。そして、そして……』
XX病院裏の広場は枯葉で一杯だ。水蠟の樹がずつと並んでゐる下を、男の背中が、毎日毎日、コツコツ歩いてゐた。彼には一つの思考があつたから、その思考が絶対絶命なものであつたから、彼にむかつて他べも皆、うしろ向きだつた。
『忍従の微笑、それほど美くしいものはない。あの女を一目みたとき、すぐ、さう感じた。あの女の身体の、表にみえない一部分が腐爛しかかつてゐる。腐れてゆきながら、あの女は、他に淋しくほゝ笑む。女の身体がすつかりみたい。だが、だが、怖ろしい……』
全身的な発疹が、女の裸体をとりまいて、それが神々しいほど聖く、美くしい。さうした女の姿ばかりが、彼の心にうかんできて、悲愁と、憧憬に悩み乱れた。
『おゝ、わが疾患あるマドンナ!』
この世がすべて、木の葉の雨だつた。いやその日は、木の葉の大嵐であつた。
標本製作室の窓の北陽は、よけいに衰亡的だ。扉が開いた。女があらはれた。——この部屋へ女を招んだのははじめてであつた。——が、女は、ハッと躊躇つた。
室内にも大きく感情の嵐がうづくまつてゐたからだ。
すなはち、男が、女をこの部屋に招ぶことは、女との別離をただちに意味してゐると信じきつてゐたので、男の表情筋も、あらゆる苦艱のあとで歪んでゐたのだ。
この室のゾーンのやうな空気と、陳列棚の異常な蠟型の潰瘍の、光線の加減で極度に花やかな彩色にみえるそのなかで、女の当惑した顔が、一番美くしくみえた。
男は、心の弱いもののとりつめた、狂気のやうな見幕で、女に命令した。
女は、人形のやうに、その通りになつた。第一に、女の大きな彫刻の細かい束髪櫛が、床板のうへへ音を立てて落ちた。それから、ほそい金属の鎖のやうに重い羽織が肩をぬげて辷り落ちた。帯が崩れた。細紐が女のわきの下を走つた。伊達巻が、裾の方へまきついてさがつた。男は、それらの順序を、目も放さず、息もしないで凝視してゐた。汚れた繃帯や、血うみのついた軟膏をはがすときのやうに、女から一つ一つ、余計なものがとれてゆくのを……
そして最後に現はれるのは美くしい腐爛体だ。男は、いきなり、飛びかかつて行つてその腐爛のなかへ鼻を突込んで接吻をしてやりたいと思つてゐた。動悸丈は激しい。額には冷い汗が流れてゐた。
襦袢があくと乳房が飛出した。それから、全身が一ぺんに、あらはれた。素情しい開花だ。くちやちやになつた美しいぬきがらのなかに突立つたその裸体は、しかし、あたたかい一個の裸体であつた。幸福さうなうす桃色の若い肉体だつた。搔傷一つすらない。摩擦傷一つついてゐない。どこも、かしこも、つぎ目のないすべすべした一つの皮膚で蔽はれた健康な肉体であつた。
完全な皮膚には、生気はある。が、精神がない。健康な身体には動物的ないけない誘惑ばかりがみちみちてゐる。
男は、その裸体、かがやくばかりにみえるその裸体のどこをみても、荒々しくて、自分のやうな人間には親しみきれないやうな弾力面の、『拒絶』ばかりがあつた。
——男が、しかし、変態感覚所有者であると考へては、誤解である。彼には健康な信条がある……それがこれなのだ。即ち、彼は、もつと傷められた者同志の魂でなければ救はれないほどの弱々しい魂をもつてゐたがためだ。
彼は、もう、石膏屑の粉がちらばつてゐる卓のうへに顔をつつ伏したまま、ひとりでしやくりあげてゐた。女は微動することもできなかつた。
『おかへり下さい。おかへり下さい。もう沢山です。着物をきてどうぞ去つて下さい。私のものぢやない。私のものぢやない……。あなたはもつと立派な方です。ずつと、立派なんです……』
男は、叫びながら彼女をみるともしないで手先丈を振つてゐた。
消硝子の窓外は、木の葉の嵐だつた。
早春
海の出ぎはのひろい磧の砂——針金屑のやうな鳶色の枯草の該骸が蔽うてゐる——が、モースリンのやうなこまかに風紋のひだをあつめてゐた。
逆光線のなかにつづく黒い松並木、そのうへの紫の蒸気をこめた重苦しい空ちうに秃げた六甲の山脈が雷火のやうな绯の稜骨を浮かせて走つた。恋といふすさまじい感情がうまれる前のやうな自然であつた!
草雲雀が、そのくらいほどな空のなかを、囀つては、囀つてはころび墜ちさうになつてまたツンツンと高くのぼつた。荒い軽石のやうに穴のあいた大石を積上げた堤防のうへを風の強い光の海が狽走し銀黒色の尖つた漁帆が枯草のあひだをいくつもいくつも並んで辷るのがみえた。
まだ早春のうち淋しい渚に下り立つ。みると、目のまへに寄せては砕ける波が、うすい、半透明な硝子鏡——紅藻やごみが妙にあかるく透いてみえる——を一瞬間直立しては砕く。俵くづや白い鳥賊の甲なんかがうちあげられた水母やぐみなどと一緒に、一線に寄つてゐる。
沖には汽船がゆく。その煤煙が太陽のうへまでのびてゐた。海と砂を抱く、こんな偉いなる日光、普き温熱にあたゝめられて私は、むしろはげしい一種の悲しみにうたれてゐた。おゝ、私のこゝろにくつろぎを垂れ、私の五体をかくまでに愛撫してくれるこの光の苦艱を、どう説明したらいいかしら。
そのときであつた。私がうしろをふりむいて丁度私がいま降りてきた長い堤防をながめると、まだ先の方をこちらへむかつて一人の女性が徐々として歩いてくる姿が目に入つた。くらいほどふかい青空のなかに、逆光をうけた女の姿が、窶れた神経的な光線に全身輪画どられながら、そろりそろりと歩を運んでやつてくる。……琥珀色のパラソルを肩でクルクルまわしながら、こゝろもち身体に柏子をとつてくる様子は、美くしいが壊れさうだ。なにか昼の洋燈のやうにあぶなつかしい。彼女だ。療養のためにこの海岸で年を越す肺疾患の女の一人なのだ。
『喀血のあとでみた青空ほど、青い空はない。喀血のあとでは丁度、悲しい恋をしてゐるもののやうに、この世界があぎやかになるのださうだ……』
彼女には恋人があつた。海水浴がさだめた恋であつた。彼女には又、一週間毎に家庭から遣はされる医師がゐた。恋人にもまだゆるさぬ身体を、この医師につきまとはれてほとんど強要的に弱い身体を弱いこゝろが打まかされて了つた。恋人は、それをきいて、憤つた。残念がつた。悲嘆にくれた。医師に対する復讐で燃えた。しかし、すぐすべてをあきらめ、ゆるし、女を愛することに前と少しも変りのないことを宣誓した。
『できたことなんかがなんだ。それにお前の本心でない事なんだもの……』
女は、それをきいて淋しさうに、しかし当惑したやうにただニコニコしてゐた。
『できたことなんかがなんだ。それにお前の本心でない事なんだもの……』
逢ふ度毎に男は、おなじ言葉でさう云つた。さう云ふ度毎に女はおなじやうに淋しげにニコニコと微笑んでゐた。恋人はやうやくその微笑に不満を覚えてきた。彼はあきらかにその都度、彼女からはつきりとした自責と後悔の情をのぞんでゐたのだつた。だが、彼女がむくいてくれるその微笑は、彼の寛恕に対する感謝の表現でさへもなくて、度重るごとに、彼女の内部へ一歩でもふみ込むことはできないぞ、といふ障壁であることを段々明らかにしてゆくに過ぎなかつた。
『できたことなんかがなんだ。それにお前の本心でない事なんだもの……』
かうしてふたりの出遇は、疲れをおぼえてゆくやうになつて、その後二ケ月、三ケ月もつづいた。
やつぱり、今日のやうな、こんな欝陶しい気持の早春のある日のことで! ふたりは海岸道から、松林へ、それから旅館の背のこみいつた漁村、ふただび射的場裏の長い長い板塀に添うて歩いてゐた。パンパンといふ小銃の音が一々空の方へ反響しながらのどかに聞えた。
小さな弾丸が紙の的を貫く。その弾丸は、また左から右に自分の帽子をかむつた頭を貫くこともできる。また右から左へ他人の帽子を貫通することだつてできる……人生の成功ではなくて失敗のみがもつ極く人間的な誘惑に就いて彼は思ひつづけた。春といふ光が泣きたいやうな慈みで彼のこゝろにしみわたつた。パンパン鳴る軽い銃声から花見とか、博覧会とかいふ昔の幻影が彼のこゝろをあはれ悲しくうき立てるやうに淡く蘇つて消えていつたりする。そのやうな日であつた。そして、彼女、彼の傍についてくる彼女、白粉を塗つた大きな束髪櫛をさしたあたまでつかちな美くしい木偶、もし弾丸を彼女へうち込んだとしたら、それこそ何が飛出すだらう。わら屑だらうか。ぼろ綿だらうか? 紙風船だらうか? おもちやだらうか? それともなにか菓子だらうか?
こゝろが妙におどけて、うかれて、やりどころのないほどそのくせ悲しかつた。しかしこの遊戯心は、たいさう彼にとつては必然性をもつてゐたのだ。なぜならば汗のやうにねばつこい嫉妬心が、憤懣が彼の考になにか痛快らしいはけ口を待設けてゐたのであつた故。
しかし、彼の表側の表情は、ただむつつりと黙りこくつてみえたので、女はただ少し離れてやはり笑つてるやうな表情をそのまゝ歪めて彼について歩いてゐた。
『できたことなんかがなんだ。それにお前の本心でない事なんだもの……』
さういひながらもその日彼は、痛切に悲しかつた。いや瞋恚に狂つてゐた。流石に女の笑つてるやうな顔も淋しさと悲しさの極致にあつたやうであつた。
男は彼女を愛してゐた。そしてその日以来もそのことに就いて悩みつづけてゐた。彼と彼女との間にできた障壁、なにもかもわかつてゐながらその壁が理解では越えきれなかた。あんなことがあつただけに、二重に強く彼の足下にひれ伏してゐる女の心も、過去を詮議立しやうにもしれきつてゐるといふことも、または結局荒立てて女から去られては、あとの自分がどんなにみじめだかといふこともわかりぬいてゐる。しかも、なにかそこのところを一直線に突きぬけてしまひたい苛々しさに駆られとほした。なにを一体突抜けるのか? どこへ? そしてどうして?……彼はもう夜も睡眠をとることができなくなつてしまつた。
『彼女を殺すか或は自分が死ぬか』さうなつてみなければ答のでないむづかしい数学問題にはまつた人のやうであつた。男はたうとう死んだ。だが彼は彼女を殺さなかつた。それといつて自分自身が自殺をしたわけでもなかつた。やつぱり彼女とおなじやうに彼もまたこゝの海岸にきて、肺の疾患を療養してゐた同志であつたから……。
女は近付いてもうすぐそばを、私のあたまのまうへのところを歩いて通つた。琥珀のパラソルの柄に釣られるやうにして足も土につかぬほどしづかに、ふわりわりと歩いていつた。だが、その気味のわるいほど仄白くすき透つた顔は、まだ笑つてゐるやうであつた。悲しい、苦しい、にがいすべての運命のあとでも……。
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